学校の世界史教科書では、「ヴィルヘルム2世が世界政策を推進し、ビスマルクの緻密な外交網を破棄したことで第一次世界大戦が勃発した」と簡潔に説明されがちです。しかし、政策決定の生々しい現場を検証すると、国家指導者の資質というよりも、極めて個人的な衝動と軍部の暴走が複雑に絡み合っていた事実が見えてきます。
1888年、わずか29歳で即位した青年皇帝は、祖父ヴィルヘルム1世と父フリードリヒ3世が相次いで世を去る「三皇帝の年」を経て帝位に就きました。彼が掲げた「陽のあたる場所(世界大の植民地と覇権)」を求める対外進出は、当時世界一の工業生産力を誇りつつあったドイツ国民の熱狂的なナショナリズムと完全に合致していたのです。
しかし、ヴィルヘルム2世の最大の欠陥は、「発言の影響力を計算できない軽率さ」と「戦略的ビジョンの欠如」にありました。イギリス、フランス、ロシアという当時の列強すべてを警戒させるような強硬姿勢を取り続けながら、いざ1914年7月のサラエボ事件で危機が最高潮に達すると、オーストリア=ハンガリー帝国に「白紙小切手」とも呼ばれる無条件の支援を約束してしまいます。自らは平和的解決を模索する書簡をロシア皇帝ニコライ2世と交わしながらも、自国の参謀本部を制御しきれず、結果として世界を未曾有の総力戦へと引きずり込みました。