民撰議院設立建白書が歴史を動かす決定打となった最大の理由は、政府への提出手続きと同時に敢行された「メディア公開作戦」にありました。提出翌日の1874年1月18日、建白書の全文が『日新真事誌』第206号に大々的に掲載されたのです。
『日新真事誌』は、スコットランド人ジャーナリストのジョン・レディ・ブラックが発行していた邦字新聞でした。当時、明治政府は言論統制を強めていましたが、外国人経営の同紙には領事裁判権(治外法権)の壁が立ちふさがり、政府は容易に発禁処分を下すことができませんでした。板垣らはこの司法の隙間を完璧に突いて、機密文書を白日の下に晒したのです。
朝野に走った衝撃は凄まじく、すぐさま知識人による紙上大論争が勃発しました。火付け役となったのが、東京開成学校長などを歴任した啓蒙思想家・加藤弘之です。加藤は『日新真事誌』上で以下のように反論しました。
「現在の日本国民はまだ封建時代の無知から抜け出しておらず、文明の開化に達していない。今すぐ議会を開けば、政治は愚民の感情に左右され国家を誤る。議会開設は時期尚早である」
これに対し板垣らは「人民が未成熟だからこそ、議会を設けて政治に参加させ、啓発していく教育的プロセスが必要なのだ」と再反論を展開しました。この「議会開設の是非・時期尚早論」が新聞紙面で大々的に戦わされたことで、それまで一部の為政者の特権だった政治論争が、全国の知識人・地方豪農層を巻き込む大衆運動へと昇華していったのです。