フッ化水素酸(HF)が「最も恐ろしい酸」と呼ばれる最大の要因は、初期症状の欺瞞性にあります。濃硫酸や濃塩酸は強酸であり、皮膚に触れると表皮のタンパク質を瞬時に凝固変性(凝固壊死)させます。このとき急激な組織破壊が起こるため、強烈な痛みのシグナルが神経を通じて脳へ伝わり、人間は反射的に手を引っ込めたり洗い流したりします。凝固したタンパク質自体が一時的な物理障壁となり、酸の急激な深部浸透をある程度食い止める側面もあります。
対照的に、フッ化水素酸は化学的には「弱酸」に分類されます。弱酸であるがゆえに水溶液中で電離しにくく、電荷を持たない電気的中性の分子(未解離のHF分子)のまま高濃度で存在します。この中性分子は脂質二重層でできた人間の皮膚細胞膜と極めて高い親和性を持ち、表皮のバリアをまるで水がスポンジに吸い込まれるかのように、痛覚受容体を刺激することなく音もなくすり抜けていきます。
痛みが遅れて現れる理由は、この潜伏期間にあります。日本中毒情報センターや日本形成外科学会の知見によると、濃度によって痛みの発現時間が大きく異なります。50%を超える高濃度フッ酸が付着した場合は即座に激痛と組織破壊が始まりますが、現場で多用される20〜50%の濃度では受傷から1〜8時間後、20%以下の低濃度フッ酸では最大24時間程度も痛みが遅延します。皮膚表面に明らかな火傷の痕跡がないまま、毒素は指の真皮、皮下脂肪、腱、そして神経を取り囲む骨膜へと到達し、そこで本格的な破壊活動を開始した瞬間、モルヒネすら効きにくいと言われる地獄の激痛が一気に爆発します。