阿修羅像の歴史 背景を語る上で欠かせないのが、奈良時代を代表する女性権力者・光明皇后の建立理由です。記録『西金堂造仏所作物帳』によると、阿修羅像を含む釈迦三尊像および八部衆・十大弟子像は、天平6年(734年)3月21日、光明皇后が前年に亡くなった実母・橘三千代の一周忌供養のために発願し、興福寺西金堂(さいこんどう)に安置されたと記されています。
当時、政治的政変(長屋王の変など)や疫病の流行、さらに光明皇后自身が生後間もない皇子(基王)を亡くした悲痛な経験が重なっていました。母への追善供養とともに、相次ぐ現世の動乱や死者への鎮魂、そして一族の罪障消滅を願う切実な思いが、阿修羅の「悔恨と救済」の姿に投影されたと考えられています。
一方で、「阿修羅像 作者 謎」はいまだ完全には解明されていません。当時の造仏長官であった百済からの渡来系貴族・将軍万福(しょうぐんまんぷく)や、筆頭絵師の稽文会(けいぶんかい)、あるいは唐から来日した工人集団の関与が指摘されていますが、誰か一人の天才彫刻家によるものか、国家的な造仏工房による集団制作の結晶かについては決定打がありません。
像の構造は、粘土の原型の上に麻布を漆で幾重にも貼り重ね、内部の土を掻き出して中空にする「脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)」という極めて高度かつ高コストな技法が用いられています。木彫では不可能な薄さと軽さ(総重量は約15kg前後)、そして粘土細工のような繊細な肉体表現を可能にしたこの技術こそが、憂いを帯びた表情の微細な陰影を現代まで歪みなく残した決定要因です。