黒い霧事件において最大の悲劇と呼ばれたのが、西鉄ライオンズの若き大エース・池永正明投手の永久追放でした。
池永は下関商業高校時代に甲子園で春夏連続準優勝を飾り、西鉄入団1年目の1965年に20勝を挙げて新人王を獲得。追放された1970年5月時点での通算成績は99勝61敗、防御率2.36。わずか5年余りで100勝目前に迫り、将来の「通算300勝」は確実と称された日本球界の至宝でした。
「100万円」を巡る罠と絶対的服従の縦社会
当時の詳細な取材記録や関係者の証言によると、池永は暴力団関係者から直接八百長を持ちかけられたわけではありませんでした。先輩投手であった益田や羽柴から「これを預かっておいてくれ」と無理やり現金100万円の札束を押し付けられたのです。
池永は不審に思い、「こんな汚い金は受け取れません。返してください」と何度も先輩に返却を試みましたが、「今返されると困る、しばらく持っておけ」と突き返され、使わずに自室のロッカーに封筒のまま保管していました。
真剣勝負を貫いていたマウンド上の事実
八百長グループからの「わざと打たれて負けろ」という指令に対し、池永はマウンドで全力投球を貫きました。該当とされる試合でも池永は快投を演じて勝利を収めており、記録上も客観的証拠としても敗退行為を行った事実は一切存在しません。
しかし、当時のコミッショナー委員会(宮沢俊義委員長代行ら)は、世論の猛反発を沈静化させるため、「八百長の勧誘を受け、金銭を預かりながら球団に報告しなかったこと自体が野球協約第177条(不正行為の隠蔽)に抵触する」として、池永の弁明を一切聞き入れず、もっとも重い「永久失格処分」を下したのです。