慶安4年(1651年)4月20日、徳川家光は江戸城において48歳という若さで急逝しました。幕府の権力を完全に掌握し、まさに絶頂期にあった将軍の突然の死は、当時から様々な憶測や風評被害を呼びました。
一部の俗説やネット上の噂では「毒殺説」や「奇病説」が語られることがありますが、公式記録である『徳川実紀』や幕府医師団の診療記録を精査すると、実際の死因は中風(脳卒中・脳血管障害)の再発と過労であったことが判明しています。
家光は30代後半から度重なる激しい頭痛や手足の麻痺、発熱に悩まされており、激務とプレッシャーの中で血管系疾患を慢性化させていました。前年には日光社参を強行するなど体調悪化を隠して公務に邁進しており、最終的には脳出血または脳梗塞の発作を起こして昏睡状態に陥り、回復することなく息を引き取りました。
家光の死後、彼を深く慕っていた老中・堀田正盛や側近・阿部重次らが次々と殉死(追腹)を遂げました。主君への忠義の極致とされる一方、貴重な幕閣の重鎮を一度に失う事態となったため、後に四代将軍・家綱の時代において殉死は武家諸法度により厳禁とされることになります。