「生糸の品質向上は、工場機械の導入だけで達成されたわけではない」。現地案内所の解説員が語るこの言葉に、日本の蚕産業がたどった歴史的必然が凝縮されています。1872(明治5)年に官営富岡製糸場が開業する以前、日本の養蚕農家は蚕の病気壊滅リスクと常に隣り合わせでした。蚕は温度や湿度の変化に極めて弱く、室内を密閉して暖める従来の「温暖育」では換気が滞り、病気が蔓延して全滅する事例が相次いでいたためです。
この難局を打破したのが、伊勢崎市境島村の蚕種農家を率いた田島弥平(1822〜1898年)でした。弥平は自然通風を最重要視する画期的な飼育法「清涼育(せいりょういく)」を考案。1863(文久3)年に完成させた主屋には、2階の屋根の上に換気用の「櫓(越屋根)」を取り付け、風通しと温度調整を両立させる合理的な建築意匠を日本で初めて確立しました。この構造は「島村式蚕室」として瞬く間に全国の養蚕農家の標準モデルへと普及していったのです。
田島家養蚕展示館では、弥平自らが執筆・刊行した日本初の体系的養蚕指導書『養蚕新論』の現物資料や、顕微鏡を用いた微粒子病検査の記録、ヨーロッパ(イタリアやフランス)へ蚕種を直接輸出した際の渡航資料などが惜しみなく展示されています。富岡製糸場が紡ぎ出した絹糸の輝きは、島村の養蚕農家による徹底した科学的アプローチによって生み出されたという事実が、展示館の資料群から明確に浮かび上がってきます。