武市半平太が権力の頂点に立ち、そして失脚へと転落する決定打となったのが、土佐藩参政・吉田東洋の暗殺です。藩政改革を推し進め、開国・公武合体を目指していた東洋は、尊王攘夷派の武市たちにとって最大の政敵でした。
文久2年(1862年)4月、半平太の密命を受けた土佐勤王党の刺客(那須信吾ら)が、城下で吉田東洋を暗殺。実力者を失った土佐藩において、半平太は藩論を尊王攘夷へと一変させ、藩主・山内豊範を擁して京都へ進出します。一時的に半平太は土佐藩の政治を取り仕切り、朝廷と幕府の間に立つ政治的フィクサーとなりました。
しかし、その栄華は長く続きませんでした。文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」により、京都から尊皇攘夷派が一掃されると、形勢は逆転します。土佐藩の絶対的権力者であった前藩主・山内容堂(やまのうちようどう)は、東洋暗殺の首謀者が半平太であることを確信し、勤王党への大弾圧を開始しました。半平太は捕縛され、過酷な獄中生活を余儀なくされます。