二人の関係が劇的に交錯したのが、1960年代後半の「虫プロダクション」における映画制作です。手塚治虫は日本初の大人向け劇場用アニメーション(アニメラマ三部作)の第1弾として、1969年公開の『千夜一夜物語』の企画を立ち上げました。その際、手塚自身が熱望し、キャラクターデザインと美術設定のチーフとして直々にオファーを出した相手こそ、やなせたかしでした。
当時、すでに売れっ子作詞家・イラストレーターとして名を馳せていたものの、長編アニメーションの現場経験がなかったやなせは当初固辞したと伝えられています。しかし、手塚は「やなせさんの持つ洗練されたリリシズムとユーモア、そして大人のエロティシズムを描ける線はあなたにしかない」と口説き落としました。手塚は、やなせが自虐していた「漫画の王道から外れた異端のセンス」を、誰よりも高く評価していたのです。
虫プロのスタジオに缶詰めとなり、手塚の狂気じみた作業量とアニメーションへの執念を間近で体感した日々は、やなせの表現者人生を大きく変えました。動く絵を作るための設計図作り、物語を動かす演出力、そして何より「動員数や商業的成功のために妥協しないプロの覚悟」を、やなせは手塚の背中から徹底的に吸収しました。この制作経験がなければ、約20年後に結実する『それいけ!アンパンマン』の絵コンテや映像監修のノウハウは存在しなかったと言っても過言ではありません。