劇中で渚カヲルが口ずさんでいた楽曲は、ベートーヴェン交響曲第9番ニ短調 作品125『合唱付き』の第4楽章、通称「歓喜の歌」です。なぜ制作陣は数ある名曲の中からこの楽曲を選び、カヲルに歌わせたのでしょうか。
当時の制作資料や音楽関係者のインタビューを紐解くと、この選曲には単なる演出上の荘厳さを超えた、極めて精緻な文脈が組み込まれていたことが分かります。第9の合唱パートで歌われる詩は、ドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラーの頌歌『歓喜に寄せて』に基づいています。そこには「過酷な運命に引き裂かれた人間たちが、歓喜の力によって再び結びつき、すべての人々は兄弟となる」という強烈な博愛と融和の思想が歌われています。
他人を傷つけることを恐れ、周囲との間に厚い「心の壁(A.T.フィールド)」を築いて殻に閉じこもるシンジに対し、絶対的な他者であるはずの使徒・カヲルが「人類の融和」を象徴する第九を口ずさみながら歩み寄るという構図は、残酷なアイロニーであると同時に、物語上の最大の救済として機能していました。