延喜の政治を語る上で避けて通れないのが、政治史に残る大事件である菅原道真の大宰府左遷(昌泰の変・901年)です。宇多上皇が学者出身の実務官僚である道真を右大臣に大抜擢し、名門貴族である藤原氏に対抗させようとした試みは、名門貴族たちの激しい反発を呼びました。左大臣の藤原時平は、道真が醍醐天皇を廃して自らの娘婿である斉世親王を皇位に就けようとしていると讒言し、道真を一気に九州・大宰府へと追放します。
政敵を排除して単独で朝政の頂点に立った藤原時平は、単なる権力亡者ではありませんでした。当時の朝廷が直面していた構造的危機を誰よりも正確に認識していた時平は、矢継ぎ早に抜本的な制度改革を断行します。その中核を成したのが、902年(延喜2年)に出された「延喜の荘園整理令」です。
この法令は、貴族や寺社が違法に拡大させていた私有地(初期荘園)を整理し、国家の基本原則である公地公民制を回復させることを目的としていました。具体的には、勅免を得ていない新規の開墾地や、皇族・有力貴族の名義を借りて税を免れようとする不法な荘園を徹底的に没収しようとしたのです。同時に、農民に口分田を割り振って税を徴収する「班田収授」が実施されましたが、これが日本史上で事実上最後に行われた班田収授となりました。
結果として、延喜の荘園整理令は所期の目的を達成できませんでした。有力貴族や大寺社は巧みに抜け穴を見つけて特権を守り抜き、中央政府の統制力はすでに地方の現場に届かなくなっていたからです。さらに時平自身が39歳の若さで急逝したことも重なり、律令国家の税制を根本から立て直す試みは、ここで行き詰まることとなりました。