ネット上の掲示板やSNSでは、「カスピ海は名前が海なのだから条約上も海なのではないか」「湖なら誰でも自由に通航できるのか」といった誤解が後を絶ちません。しかし、この水域の法的な位置づけをめぐる国際政治の攻防は、極めて生々しい利害関係の上に成り立っています。
かつてソビエト連邦が存在した時代、カスピ海を取り囲む沿岸国はソ連とイランの2カ国のみでした。両国は二国間条約を締結し、カスピ海を「共同管理の湖」として友好的に利用・分割していたのです。ところが1991年のソ連崩壊によって事態は激変しました。ソ連領だった沿岸がロシア、アゼルバイジャン、カザフスタン、トルクメニスタンの独立国に分かれ、沿岸国が突如として5カ国へと拡大したためです。
対立の主因となったのは、カスピ海の湖底に眠る莫大な石油と天然ガス資源でした。推定埋蔵量はペルシャ湾岸に匹敵するとも目され、パイプラインの敷設ルートを巡って各国の利害が真っ向から衝突したのです。
ここで焦点となったのが、「カスピ海を法的に海と見なすか、湖と見なすか」という定義論争でした。
- 「海(公海)」とした場合:国連海洋法条約(UNCLOS)が適用され、各国の沿岸から12海里の領海と200海里の排他的経済水域(EEZ)が設定される。中央部は公海扱いとなり、内陸国を含む全沿岸国が公海部分の航行自由や資源アクセス権を主張できる。
- 「湖」とした場合:国際海洋法は適用されず、沿岸5カ国すべての合意に基づく共同管理、あるいは各国の湖岸線の長さに比例した等分管理が必要となり、ロシアやイランが沿岸小国の単独開発や域外大国(欧米諸国)の軍事的・経済的介入を制限しやすくなる。
25年以上に及ぶ膠着状態の末、2018年にカザフスタンのアクタウで「カスピ海の法的地位に関する条約」が調印されました。この歴史的合意において、沿岸5カ国はカスピ海を「海でも湖でもない、特別な法的地位を有する水域」と定義するという巧妙な妥協案を採用しました。水面は全沿岸国が利用可能な共有空間としつつ、湖底と地下資源は二国間協定などによって厳密に分割管轄することが決定されたのです。さらに、沿岸5カ国以外の軍隊の駐留を禁じる条項が盛り込まれ、域外勢力の関与を遮断する強固な枠組みが構築されました。