扉を開けた瞬間に広がるのは、立ち上る湯気とヒバの芳香、そして静かに波打つ湯面だけです。壁際を見渡しても、蛇口やカラン、プラスチックの椅子はどこにも見当たりません。山代温泉の古総湯においてシャンプーや石鹸の使用が完全に禁止され、洗い場すら設けられていないのは、この施設が明治時代の入浴スタイルを忠実に復元した「体験型温泉博物館」だからです。
江戸時代から明治初期にかけての日本の温泉地において、共同浴場は体を洗って汚れを落とす場所ではなく、純粋に霊泉に身を沈めて病を癒やす「湯治」の場でした。かつて人々は、湯船の周囲に腰を下ろし、柄杓で湯を汲んで体を清める「掛け湯」だけを行ってから湯に浸かっていました。界面活性剤で泡を立てて体を擦るという習慣自体、近代以降の内湯文化や大衆浴場の発展とともに定着した比較的新しい様式に過ぎません。
山代温泉観光協会や文化財関係者の証言によると、2010年に古総湯を再建・復元するプロジェクトが始動した際、利便性を優先して近代的なシャワーを設置する案も議論されたといいます。しかし、最終的に選ばれたのは「失われつつある日本の原風景たる湯あみを、五感で追体験できる空間」を妥協なく再現する道でした。木造建築の保護や良質な源泉の汚濁防止という実務的な理由もさることながら、本質は「温泉そのものと対話する贅沢な時間」を現代人に提供することにあります。