全国の都道府県を見渡すと、県庁所在地はその県で最も人口が多い経済的中心地に置かれるケースが一般的です。しかし山口県においては、県内最大の人口(約24.4万人)を擁し、関門海峡に面して古くから海運・金融・商工業の拠点として繁栄してきた下関市ではなく、人口規模で劣る内陸盆地の「山口市」に県庁が鎮座しています。
「なぜ経済の中心地である下関に県庁が置かれなかったのか」という疑問は、地元住民の間でも語り継がれるテーマであり、入試や地理の雑学でも頻出の論点です。この謎を解き明かす鍵は、江戸時代末期の幕末史と地政学的な軍事戦略に隠されています。
長州藩の存亡を賭けた「萩から山口への藩庁移転」(1863年)
江戸時代の長州藩は、日本海に面した「萩城(萩市)」に拠点を置いていました。しかし幕末の動乱期、第13代藩主・毛利敬親(もうり たかちか)は、1863年(文久3年)に藩庁を萩から内陸の山口へと突如移転させます。これが「山口政事堂」の誕生です。
当時、長州藩は攘夷決行を宣言して下関海峡を通過する外国船を砲撃しており、欧米列強との全面戦争は避けられない情勢でした。事実、翌1864年にはイギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊による報復攻撃(下関戦争・四国艦隊下関砲撃事件)が勃発し、下関の砲台は徹底的に壊滅させられています。
毛利敬親とその重臣たちが恐れていたのは、海岸線に位置する萩城や下関が外国艦隊の艦砲射撃によって一瞬で灰燼に帰し、藩の司令部が機能を喪失することでした。そこで選ばれたのが、四方を山に囲まれて強固な天然の要塞となり、なおかつ瀬戸内海側と日本海側の双方へ迅速に部隊を展開できる内陸交通の要所・山口だったのです。
廃藩置県と「行政の山口・経済の下関」という分権構造の成立
明治維新を迎え、1871年(明治4年)の廃藩置県によって山口県が設置された際も、旧長州藩が築き上げた山口政事堂の行政インフラがそのまま県庁舎へと引き継がれました。
近代以降、下関市は鉄道網の整備や関門航路の発展によって西日本随一の国際貿易港へと成長し、「下関に県庁を移転すべきではないか」という議論が過去に幾度となく持ち上がりました。しかし、山口市は地理的に県の中央部に位置しており、県内全域への行政サービスの公平性を保つ観点からも、県庁を移転させる決定的な動機には至りませんでした。
結果として山口県は、「政治・行政の中枢=山口市」「経済・港湾・交通の中心=下関市」「重化学工業の集積=周南市・宇部市」という、機能が高度に分散された独自の多極分散型ネットワークを形成することとなったのです。