『土佐日記』の結末において、読者が最も強い違和感と衝撃を覚えるのが「我が家の無残な荒廃」です。承平5年(935年)2月16日、55日間にわたる暴風雨や海賊の恐怖を乗り越え、ようやく辿り着いた京の屋敷。なぜ、そこまで荒れ果てていたのでしょうか。その背景には、当時の平安貴族社会における受領階層の厳しい構造的現実がありました。
紀貫之が土佐守として赴任していた4年間、京の邸宅は知人に管理を委ねていました。原文にある「留守預けたりつる人(留守を頼んでおいた人)」です。しかし、帰還した貫之の目に飛び込んできたのは、門が壊れ、月の光が筒抜けになり、庭の松が枯れ果てた廃墟のような屋敷でした。しかも、隣の家のクスノキは青々と茂り、隣家は栄えているという記述が、貫之の屋敷の寂寥感をいっそう際立たせます。
平安時代中期、受領として地方へ赴任する貴族は、家族や従者を伴って任地へ赴く一方、本邸の維持には莫大な私財が必要でした。留守を任された人物は、貫之が不在の間に屋敷を私物化するか、あるいは管理を完全に放棄していたのです。「門守のところづと(門番へのお土産)」を持参したにもかかわらず、手渡す相手すら見当たらないという描写は、雇っていた門番さえ逃げ出すほど邸宅が荒廃し切っていた事実を物語っています。貫之が抱いた怒りと落胆は、単に建物が傷んでいたからではなく、信じていた人間の不実に対する深い絶望でもありました。