ネット上のマナー情報では、「『万』は『萬』の略字であり、略字をご祝儀袋に使うのは相手に対して手抜きをしているようで失礼にあたる」という言説がまことしやかに語られることがあります。しかし、文字学および歴史的な文献調査を行うと、この主張には大きな誤解があることが判明します。
実は、「万」という字は戦後の当用漢字制定(1946年)で突然作られた安易な略字ではありません。古代中国の殷・周時代の甲骨文字や金文、さらには漢代の竹簡において、すでに「万」の字形は「萬」とともに存在していました。サソリの形を模した象形文字である「萬」に対し、「万」は筆記の便宜のために古代から広く通用していた異体字(同字)に過ぎないのです。
したがって、「万」と書いたからといって相手を軽んじたことには歴史的にも論理的にも一切なりません。それにもかかわらず冠婚葬祭で「萬」が好まれるのは、以下の2つの心理的・慣習的要因によるものです。
第1に、「壱」という重厚な大字と並べた際、画数の少ない「万」では視覚的なバランス(字面の調和)が取りづらく、右上がりに重心が偏ってしまうという美的な理由です。第2に、「一生に一度の晴れ舞台には、できる限り手間の掛かった格式高い文字を捧げたい」という、日本特有の贈答儀礼における敬意の表れです。
「万」を失礼と断じるのはマナー警察的な誇張ですが、「萬」を選んでおくことで、形式や作法に厳しい年配の親族や目上の招待客からも文句の付けようがない完璧な敬意を示せるという実利的なメリットは確かに存在します。