延喜の治において最も著名な経済政策が、902年(延喜2年)に発令された延喜の荘園整理令です。これは、国家公認以外の違法な荘園の設立を禁じ、貴族や寺社による公有地の横領を摘発する法令でした。同時に、この年には農民へ田を割り振る「班田収授」が実施されましたが、これが日本史上最後に行われた班田となりました。
なぜ延喜の荘園整理令が必要だったのか。その理由は、天武・持統朝以来続いてきた「律令制(公地公民制)」が完全に破綻していたからです。戸籍による民衆把握は偽籍(税負担を逃れるために男性を女性と偽るなど)の横行で形骸化し、浮浪・逃亡した農民は有力貴族の私有地(初期荘園)に逃げ込み、朝廷に入ってくる租税は激減していました。醍醐天皇と時平は、かつての強固な律令国家へ時計の針を戻そうと試みたのです。
しかし、この改革は完全な失敗に終わりました。整理の対象となる荘園の所有者自身が、朝廷の最高幹部である藤原氏や大寺社であったため、既得権益の壁に阻まれて徹底的な取り締まりなど不可能だったからです。同時代の官人・三善清行が914年(延喜14年)に醍醐天皇へ提出した政策提言書『意見封事十二箇条』には、現場の荒廃ぶりが次のように生々しく記されています。
「地方の諸国は荒れ果て、かつて数千人を数えた郡の納税者が、今やわずか数人にまで激減している。このままでは国家は滅亡する」
そして村上天皇の時代を迎える直前の935年〜940年、律令制の限界は武力衝突という最悪の形で爆発します。関東における平将門の乱と、瀬戸内海における藤原純友の乱、いわゆる承平・天慶の乱です。地方政治の腐敗に耐えかねた地方武士と海賊勢力が国家に対して公然と反旗を翻したこの大乱は、朝廷の正規軍では鎮定できず、現地の武士(平貞盛・藤原秀郷ら)の武力に依存して辛うじて鎮定されました。律令制が完全に機能不全に陥っていた事実は、承平・天慶の乱という激震によって誰の目にも明らかとなったのです。