ノーベル経済学賞を受賞した天才数学者ジョン・ナッシュの半生は、理性の最高峰に君臨する知性と、それを蝕む精神の嵐が同居した希有な実例だ。若くして「ゲーム理論」の基礎を築き、学界に革命を起こした彼を襲ったのは、冷酷なまでに鮮烈な被害妄想と幻覚だった。国家の秘密暗号を解読しているという強固な思い込みから、突如として教壇を去り、数十年にわたる長い沈黙の時期へと突入した。
特筆すべきは、彼が完全に病を「根絶」させたのではなく、幻覚を自らの意志で無視し、共存する術を学んだ点にある。精神医学の進展とともに薬物療法を慎重に調整し、プリンストン大学の同僚たちの温かい見守りを受けながら、彼は再び思考の世界へと帰還した。知性を武器に自らの脳のバグを手なずけたナッシュの軌跡は、科学と人間の精神が交錯する究極のドラマといえる。