韓国側の対日認識において、竹島問題は領土係争にとどまらず「日本の帝国主義的侵略の最初の犠牲」という強烈な歴史カードとして語られます。韓国側は、1905年の島根県告示による日本の領土編入措置そのものを「日露戦争の混乱に乗じた強制的な強奪」と規定し、第二次世界大戦における日本の敗戦によって当然に韓国へ返還されるべき領土であったと主張し続けています。
しかし、戦後の国際秩序を確定させた1951年署名のサンフランシスコ平和条約の起草過程を精査すると、韓国側の主張とは真っ向から対立する外交事実が浮き彫りになります。条約第2条(a)には、「日本は朝鮮の独立を承認し、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と明記されています。ここには意図的に「竹島」の名が含まれていません。
実際、条約策定の最終局面であった1951年7月、駐米韓国大使の梁裕燦(ヤン・ユチャン)は米国政府に対し、日本が放棄すべき地域に「独島」を明示的に加えるよう公式要請書を提出しました。これに対し、米国国務次官補ディーン・ラスクが1951年8月10日付で送った公式返信が、外交史上で極めて重要な「ラスク書簡」です。書簡には以下のように記されていました。
「ドクトあるいは竹島・リアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩礁は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことは一度もなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」
このラスク書簡は、連合国の主導国であった米国が「竹島は日本領であり、放棄領土には含まれない」と明確に判断を下した決定打と言えます。韓国側はこの文書について「連合国全体の合意ではない米国の個別意見に過ぎない」あるいは「非公開文書であった」と反論を試みていますが、条約起草の実質的な主導国が韓国の直接の領有要求を審議した上で正式に拒絶した記録事実は、国際法秩序において重い意味を持っています。