1963年(昭和38年)に竣工した大手町平和ビルは、なぜ解体という道を選んだのでしょうか。ネット上では「耐震基準を満たせなかったための単純な取り壊し」と語られることもありますが、都市計画の観点から見れば、それは表面的な事実に過ぎません。解体の決定打となったのは、国家戦略とも連動した「大手町地区連鎖型都市再生プロジェクト」の始動でした。
2000年代初頭、大手町地区は昭和30年代〜40年代に建てられた大規模オフィスビルの更新期を一斉に迎えていました。しかし、日本を代表する大企業が密集して入居しているため、各ビルを個別に解体・建て替えすると、工事中のテナント移転先(種地)が不足し、ビジネス活動が麻痺するという構造的課題(いわゆる「大手町問題」)に直面していたのです。
そこでUR都市機構や三菱地所、平和不動産らが参画し、旧公庫ビル跡地などを種地として玉突き(連鎖的)に建替えを進行させる手法が採られました。大手町平和ビルが存在した街区は「大手町一丁目第2地区第一種市街地再開発事業」に指定。隣接するりそな・マルハビル(旧大和銀行東京営業部/マルハ本社)との敷地統合によって、容積率を従来の約1,000%弱から1,300%超へと大幅に引き上げ、都市機能を抜本的に刷新する国家プロジェクトが策定されたのです。
当時の平和不動産関係者の記録資料によると、単独ビルとしての改修・延命も検討されたものの、敷地を共同化して超高層化を図る方が、資産価値の極大化、地下インフラの接続、そして国際金融センター構想への合致という観点で圧倒的に有利と判断されました。結果として2008年から順次解体工事に着手され、半世紀近い歴史に幕を下ろすこととなったのです。