事故直後、地面に落ちた歯を見て「泥やバイ菌がついたままでは感染症を起こすのではないか」と恐れ、水道の蛇口を全開にしてゴシゴシと指先でこすり洗いしてしまうケースは後を絶ちません。しかし、都内の大学病院救急歯科で数多くの外傷治療を担当してきた臨床医は、現場の無念さを次のように語ります。
「保護者や教護担当者が『きれいに洗って持ってきました!』と真っ白になった歯を差し出される瞬間が、歯科医師にとって最も胸が痛む場面です。土を洗い流すのと引き換えに、歯を元に戻すために不可欠な生きた細胞を、自らの手で全滅させてしまっているからです」
なぜ水道水が歯にとって猛毒となってしまうのか。その主原因は「浸透圧」と「物理的摩擦」にあります。
抜けた歯の根っこの表面には、「歯根膜(しこんまく)」と呼ばれる薄い繊維組織の細胞が無数に付着しています。この歯根膜こそが、顎の骨(歯槽骨)と歯を強固に繋ぎ止め、噛んだときの衝撃をクッションのように吸収する組織です。歯根膜細胞の内部は、血液や体液と同じ約280〜300mOsm/kgの浸透圧で満たされています。
ところが、日本の一般的な水道水は不純物が極めて少ない「低張液(ていちょうえき)」です。浸透圧の原理により、水分子は濃度の高い細胞内へと一気に流れ込みます。その結果、耐えきれなくなった歯根膜細胞がわずか数分で水風船のように膨張し、次々と破裂して壊死してしまいます。さらに、指やガーゼで根元をこする行為は、残された微細なシャーピー線維を物理的に根こそぎ引き剥がす暴挙にほかなりません。
もし歯に土や砂が付着していたとしても、絶対にこすらず、後述する適切な液体の中にそのまま投入して歯科医師に委ねることが、生着への唯一の道筋です。