北斎が自然の猛威や幾何学的な構図の構築に神技を見せたのに対し、歌麿は「恋」という目に見えない情念を視覚化することに全霊を捧げた。その到達点が『歌撰恋之部』の連作である。
『物思恋(ものおもうこい)』に描かれた女性の表情を見てほしい。眉をひそめ、宙を見つめる瞳には、激しい恋情と孤独、やり場のない焦燥感が渦巻いている。指先の強張り、わずかに乱れた生え際の一筋の髪。言葉にならない感情の質量が、線の強弱だけで雄弁に語りかけてくる。
風景や動植物の客観的な描写に秀でた北斎にはない、泥臭いまでの人間への執着。歌麿は人間の弱さやエゴイズム、抑えきれない欲望さえも美へと昇華させた。この心理描写の深さにおいて、当時の浮世絵界で歌麿の右に出る者はいなかった。