現場となった忠別沢は、一度迷い込むと自力脱出がほぼ不可能な天然のすり鉢状トラップです。山岳救助隊員の記録によると、夏でも冷涼な大雪山系では、沢沿いにチシマザサ(根曲がり竹)が人間の背丈を優に超える2メートル以上に密生しています。足元は滑りやすい泥と雪解け水で覆われ、足を踏み出しても地面に届かず竹の茎の上に乗ってしまうため、前進するだけで体力を猛烈に消耗します。
ここで遭難者が陥るのが、山岳遭難心理学における「下山衝動(下りバイアス)」です。道に迷った際、人間は本能的に「下へ降りれば人里や川原、道路に出られるはずだ」という強い正常性バイアスに支配されます。しかし、北海道の広大な原生林において沢を下る行為は、険しいゴルジュ(喉首状の峡谷)や落差数メートルの滝に行く手を阻まれ、死へ直結する最も危険な選択です。
男性も例に漏れず沢沿いを下り続け、ついに身動きの取れない崖の下に追い詰められました。後方には登り返せない急斜面、前方には通行不能な滝。孤立無援の袋小路の中で、頭上を通過したであろうヘリコプターの爆音を聞いたときの焦燥感は想像を絶します。男性は残された力で倒木を引きずり集め、白樺の白い樹皮を空へ向けて並べました。命を繋ぐための最後の賭けが、あのSOSサインだったのです。