忍路 パンという言葉を耳にした瞬間、多くのパン愛好家の脳裏に浮かぶのは、日本海の荒波を見下ろす断崖にぽつんと佇む小さな木造家屋の情景だろう。北海道小樽市の西端に位置する忍路(おしょろ)の岬。かつてニシン漁の活気に沸き、いまは寄せては返す波の音と潮風だけが支配するこの静かな寒村に、全国津々浦々から旅人が引きも切らず押し寄せている。
札幌の中心部から車を走らせて小一時間、急勾配の細い坂道を登り詰めた高台にその目的地はある。早朝の澄んだ空気のなか、他県ナンバーの車が列をなし、忍路 パンの揺るぎない代名詞となった芳醇な薪の香りを胸いっぱいに吸い込みながら開店の刻を待つ。近代的な設備が整った都会の有名店を差し置いて、なぜ人々はこの人里離れた北の岬を目指すのか。その引力の源泉を探るべく現地を訪ねた。
潮風吹き抜ける断崖のブーランジェリー「エグ・ヴィヴ」の原点
荒涼とした日本海の水平線を一望する崖の上に店を構えるのが、名高いブーランジェリー「エグ・ヴィヴ(Aigues Vives)」だ。南フランスの小村から名を取ったこの店は、小樽市忍路の豊かな自然とどこか厳格な風景の中に静かに溶け込んでいる。店内に足を踏み入れると、余計な装飾は一切ない。木製のカウンター越しに広がるのは、無骨なまでに力強いパンの山と、奥に鎮座する巨大な窯の気配だけだ。
店主の楠田敏行シェフがこの地を選んだのは、単なる隠れ家としてのロケーションを求めたからではない。パン作りの根源である火、水、小麦、そして発酵に影響を与える空気の循環を極限まで突き詰めた結果としての忍路だった。外界の喧騒から完全に隔絶されたこの場所で、日々ひたすらにパンと向き合う職人の姿がそこにある。
薪窯の炎が宿す生命力——楠田敏行シェフが切り拓いたパンの地平
効率と均一性を追求する現代のベーカリー産業において、エグ・ヴィヴのアプローチは完全に真逆をいく。ここで焼き上げられるのは、電気やガスのオーブンでは決して再現できない薪窯パンだ。楠田シェフ自らが薪を割り、窯に火をくべ、レンガの蓄熱状態を五感で読み取る。温度計の数値ではなく、石肌の照りや薪のはぜる音、空気の乾燥具合を感じ取りながら、パン生地を窯の深奥へと送り込む。
薪の炎で一気に焼き固められたクラスト(外皮)は、時に漆黒に近いほど深い褐色を帯びる。焦げの一歩手前で引き出されるカラメルのような香ばしさと、内側に閉じ込められたみずみずしいクラム(内相)の対比は圧巻だ。自然酵母のほのかな酸味と小麦本来の甘みが噛み締めるほどに溢れ出し、口の中で複雑な余韻を残す。大量生産の時代に忘れ去られかけたパンの原初的な旨さが、この薪窯パンには宿っている。