天正7年(1579年)、徳川家を揺るがす未曾有の事態が勃発します。徳姫が父・信長に向けて認めたとされる「十二ヶ条の訴状」です。この書状には、姑である築山殿の不審な行動や、信康の乱暴狼藉ぶりが微細に書き連ねられていました。
確執の決定的な引き金となったのは、姑・築山殿との関係悪化です。今川一門の誇りを持つ築山殿にとって、今川義元を討ち取った織田家は不倶戴天の仇敵でした。その娘である徳姫に対し、築山殿は冷淡な態度を崩さず、跡継ぎの男子が生まれないことを理由に、元武田家臣の娘をはじめとする側室を信康に次々とあてがいました。孤立無援となった徳姫の精神的ストレスは極限に達していたと見られます。
訴状に記された内容は戦慄すべきものでした。「信康が領民や僧侶を理不尽に弓矢で射殺した」「鷹狩りの獲物が少なかったことに怒り、通りがかりの僧を殺害した」といった狂気的な素行、さらに最も致命的だったのが「築山殿が甲斐の武田勝頼と内通し、徳川乗っ取りを企てている」という密通疑惑です。しかし、近年の歴史解釈では、徳姫自身は「夫の命を奪うこと」までは予期しておらず、実家の絶大な権力を背景に姑を牽制し、自身の立場を回復させるためのSOSだったとする見方が有力視されています。