本作の核心となるプロットは、傍から見れば「ただ食堂ですき焼き定食を食べるだけの数十分間」にすぎません。しかし、主人公の脳内では世界チェス選手権にも匹敵する極限の頭脳戦が繰り広げられています。
注文した「すき焼き定食」が目の前に到着した瞬間から勝負は始まります。固形燃料の炎に煽られ、沸き立つ割下。具材は牛肉、白滝(しらたき)、焼き豆腐、長ネギ。そして脇を固める生卵と白米、味噌汁、お新香。男の目的は「すべての食材のポテンシャルを最高値で引き出し、最後にご飯と具材を完璧な比率で完食すること」に置かれます。
男を狂わせるトラップの一つが「白滝のポジション」です。白滝に含まれるカルシウム分が肉を硬くしてしまうという通説を危惧し、鍋の中で即座に肉と白滝の間に長ネギの防波堤を築き上げるという異常な防衛策を展開。さらに、貴重な牛肉をどのタイミングで溶き卵にダイブさせ、何口目の白米をかきこむかで頭を抱えます。肉ばかりを先行させれば終盤に豆腐と白滝の消化試合が訪れ、美学が崩壊してしまうためです。
計算に計算を重ね、完璧なローテーションで鍋を平らげようと画策する男ですが、物語の結末には常に残酷でシュールな皮肉が待っています。残り一口のご飯の配分を完璧に制したと思った瞬間、予期せぬ落とし穴――例えば見落としていた具材の存在や、溶き卵の余り具合といった些細な狂いによって、自らの美学が音を立てて瓦解していくのです。張り詰めた緊張感が自滅によって一気に弛緩するこのクライマックスこそ、本作最大のカタルシスとなっています。