それでは、上野の西郷像の足元にいる犬は、一体誰が飼っていた何という名前の犬だったのでしょうか。長年ネット上や歴史ファンの間で議論が交わされてきた「モデル犬の真相」について、現存する制作記録や証言資料を突き合わせると、動かぬ事実が浮かび上がってきます。
後藤貞行が彫刻の直接のモデルとしたのは、ツンではなく、当時の海軍中将・仁礼景範の愛犬、あるいは同じく海軍関係者であった高野兼吉が所有していた薩摩犬のオス、「仁武(いんむ)」という名の犬でした。後藤貞行はこの仁武を自身のアトリエに逗留させ、何百枚ものデッサンと粘土原型を重ねてあの躍動感あふれる姿を完成させたのです。
さらに、後藤自身が飼育していた愛犬の洋犬(ポインター種などの混血)の骨格美や躍動感も部分的にデフォルメとして加味された形跡があり、美術史の研究者からは「上野の犬は、純粋な薩摩犬の忠実なスケッチというより、後藤貞行が理想化した和犬の造形美である」と評価されています。
銅像の除幕式当日、西郷の未亡人である西郷糸(イト)が銅像を見るなり発したとされる有名な言葉があります。
「宿毛(しゅくも)のお人はこげんなお人じゃなか(夫はこのような人ではありませんでした)」
この発言は主に西郷本人の風貌(生前の西郷は写真を極度に嫌い、肖像画もモンタージュであったため)に向けられたものとして有名ですが、傍らにいた犬についても、家族から見れば「ツンとは似ても似つかない見知らぬ大柄な雄犬」が立っていたことになります。国民が「ツン」として親しんできた銅像の犬は、美術的リアリズムと政治的演出の狭間で生まれた、歴史の壮大なすれ違いの産物だったと言えます。