藤色が日本文化において不動の地位を確立した背景には、日本の古代政治を牛耳った藤原氏の存在と、植物としての藤が持つ生命力への信仰がありました。古くは『万葉集』にも藤を詠んだ歌が20首以上収められていますが、単なる植物の描写を超えて「服飾の特権的な色彩」へと押し上げたのは平安貴族たちです。
藤原一族は、その家名に「藤」を冠することから、藤の花を氏族の象徴として神聖視しました。天に向かって伸び、やがて優美に垂れ下がる無数の花房、そして周囲を満たす芳香は、一門の繁栄と生命力の強靭さを誇示するのに格好のモチーフでした。濃い紫が聖徳太子の冠位十二階以来「禁色(一般の使用が制限された最高位の色)」であったのに対し、やや淡い藤色は宮中の高貴な女性たちの装束として爆発的な人気を博します。『源氏物語』において光源氏が生涯をかけて思慕し続けた女性が「藤壺(ふじつぼ)」であり、その面影を宿す少女が「若紫」と名付けられた設定は、当時の王朝文化において藤色がいかに至高の美と結びついていたかを証明しています。
当時の貴族階級の美学を極限まで体現したのが、着物の重ね着によるグラデーションを楽しむ「襲の色目(かさねのいろめ)」です。「藤」の襲は、表に紫、裏に青を合わせる仕立てや、表に薄紫、裏に萌黄(新緑の色)を重ねる配色が知られており、藤の花が新緑の葉の間からこぼれ落ちる情景を衣装の上に見事に再現していました。
その後、江戸時代に入ると染色技術の民主化と変遷が起こります。本来の藤色は高価な藍(植物染料)と紅花(紅)を掛け合わせて染成されていましたが、庶民への奢侈禁止令やコストの壁が立ちはだかりました。染色の古典文献である『染物秘伝』(1797年刊)の記述によると、江戸中期の染色現場では高価な紅の代わりに、スオウ(蘇芳)と鉄媒染を用いた代用染めが考案され、広く町人文化の間でも藤色を楽しむ知恵が浸透していった記録が残されています。