高校の現代文授業やネット上の議論において、もっとも白熱する論点がKの自殺の理由と考察です。表層的にながめれば「愛するお嬢さんを友人に奪われたショックによる失恋自殺」と受け取られがちですが、漱石が張り巡らせたテキストの伏線は、はるかに深遠な実存的危機を物語っています。
第一に注目すべきは、Kの生い立ちと人生の目的です。浄土真宗の寺に生まれ、医者の養子となりながらも実家を欺いて哲学と宗教の道を選んだKは、人並みの幸福や恋愛を「精神の向上を妨げる俗物的な執着」として徹底的に退けていました。そのKが、あろうことか下宿のお嬢さんに心奪われ、自らの頑迷な肉体と情欲を制御できなくなってしまった。この時点で、Kの「求道者としての自己」は根底から揺らいでいました。
第二に、先生から浴びせられた「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」という言葉の破壊力です。Kは先生に言い負かされたことではなく、自らが最も軽蔑していた「美しくもない俗世の迷い」に囚われている冷厳な事実を、他者の鏡を通じて直視させられたことに絶望しました。Kが口にした「覚悟、――なら、ない事もない」という呟きは、お嬢さんを奪い返す覚悟ではなく、自己の信条を裏切ってしまった肉体を抹殺する覚悟だったと考えられます。
第三に、遺書に記された「なぜもっと早く死に損なっただろう」という不可解な述懐です。失恋への恨み言を一切排し、国語教師の父親や養家への詫びとともに記されたこのフレーズは、彼にとっての死が突発的な激情ではなく、自己の厳格な理想に対する「遅すぎた処刑」であったことを物語っています。Kは先生の策略によって殺された被害者であると同時に、自らのストイシズムに殉じた純粋主義の犠牲者でもあったのです。