ビジュアルの良さは、当然ながら当時の人間関係や異性関係にも強烈な痕跡を残しています。客観的な一次史料を精査すると、後世の創作を遥かに凌駕する「本物のモテ伝説」が記録されています。
その筆頭が、土方歳三が日野の義兄・佐藤彦五郎宛てに送った実物の書簡です。新選組が京都守護職の配下として名を馳せていた文久3年(1863年)、土方は故郷へ送る手荷物の中に、京都の花街(島原や祇園)の芸妓や舞妓から送られてきた大量の「恋文の束」を同封しました。手紙にはこう添えられていました。
「報国情深し、ただ恋文多きかな」
さらに、「島原の芸妓より申し来り候」「祇園の芸妓からも便りあり」と、自らがどれほど花街の女性たちから熱烈に言い寄られているかを誇らしげに報告しています。単なる自慢話のようにも読めますが、命のやり取りが日常であった過酷な治安維持活動の合間に、自らの色男ぶりを家族に伝えて安心させようとした人間味あふれるエピソードでもあります。事実、八木邸の記録や当時の町人の証言でも、土方が通ると花街の女性たちが障子の隙間から見惚れていたという話が残っています。
一方、平安末期の英雄・源義経の美男子伝説には、明確な「虚飾の構造」が認められます。能や歌舞伎、軍記物語の『義経記』では、白粉を塗ったような美しい白面の貴公子として描かれますが、同時代の平家方の武将・大庭景義らの証言や『平家物語』の初期記述を紐解くと、義経は「小柄で出っ歯、眉間に深いシワを寄せた精悍な風貌」であったと記されています。
義経がなぜ美男子として定着したのか。その理由は、非業の死を遂げた悲劇の天才軍略家に対する民衆の同情感情、いわゆる「判官贔屓(ほうがんびいき)」にあります。日本の伝統芸能において、悲劇の主人公は容姿端麗でなければ観客の涙を誘えないという作劇上の要請が働き、数百年をかけて「薄幸の美少年」へとビジュアルの改変が行われたのです。