百合子さまの生涯を語る上で欠かせないのが、少女期から戦時体制へと突入していく昭和初期の原風景です。旧姓は高木百合子。旧信濃国丹南藩主の家系である子爵・高木正得(まさなり)氏の二女として1923(大正12)年6月4日に誕生しました。女子学習院本科で学ばれていた1941(昭和16)年、18歳という若さで昭和天皇の末弟である三笠宮崇仁親王との婚儀に臨まれました。日米開戦のわずか2カ月前、国全体が緊迫の度を深めていた時期の門出でした。
崇仁親王妃百合子の若い頃を象徴するのは、華やかなプリンセス像とは対照的な「戦火を耐え忍ぶ日常」でした。1945年5月の東京大空襲では、当時の青山東急殿が直撃を受けて全焼。防空壕へ避難され、生後間もない長女の甯子(やすこ)内親王を抱きしめながら猛火をくぐり抜けた体験は、後年の手記でも鮮明に回想されています。
終戦を迎えても平穏はすぐには訪れませんでした。皇室財産の国庫帰属や皇族費の激減に伴い、三笠宮邸の生活は一変します。当時、侍従や女官などの職員が大幅に削減されるなか、百合子さまは自ら割烹着を着て台所に立ち、配給の芋やヤミ物資を工夫しながら家族の食卓を整えられました。崇仁親王妃百合子の経歴は、皇統の尊厳を守りつつも、庶民と同じ地平で生活の苦楽を噛み締められた「昭和のたくましき母」としての歩みそのものでした。