婚約破談の直後から、メディアはりえママを「娘の幸せを壊した悪魔の母」として徹底的に叩き始めました。その激しい世論の嵐の中で、りえさんは心身ともに追い詰められていきます。1990年代半ばには激やせ報道が過熱し、体重が30キロ台前半まで落ち込んだとされる姿が連日ワイドショーを騒がせました。自殺未遂騒動や主演映画の突然の降板など、痛ましいニュースが相次ぎます。
この時期、母娘の間にも激しい確執が生じていたのは事実です。光子氏の絶対的な支配から逃れるかのように、りえさんは単身でアメリカ・ロサンゼルスへ渡り、芸能活動を完全に休止して治療と休養に専念しました。世間は「親子の完全決別」と書き立てました。
しかし、二人の絆は単純な愛憎の二元論では測れない深さを持っていました。ロサンゼルスでの生活を経て心身の健康を取り戻したりえさんは、舞台演出家・蜷川幸雄氏や野田秀樹氏との出会いを通じて本格派女優として奇跡の復活を遂げます。その陰で、光子氏もまた一歩身を引き、娘の自立を静かに見守る立場へと変わっていきました。
そして2014年9月23日、宮沢光子氏は都内の病院で息を引き取ります。享年65。公式に発表された宮沢りえ母の死因は「肝腫瘍」でした。闘病生活中、りえさんは多忙な仕事の合間を縫って母の病室に日参し、最期の瞬間まで手を握りしめ、看取りました。かつての確執を乗り越え、最期に二人は確かに分かり合い、深い和解の中にあったと当時の近親者は証言しています。