逮捕後、世論は極刑を求め強く沸騰しました。しかし、事件当時の犯人グループ全員が未成年(15歳〜17歳)であったことから、少年法による強い保護規定が適用されました。検察側は主犯格の少年Aに無期懲役を求刑したものの、東京地方裁判所および控訴審の東京高等裁判所が下した判決は、当時の少年法の上限付近にとどまる有期刑でした。
東京高裁(1991年7月)は、犯行の残虐性と遺族の峻烈な処罰感情を認めつつも、少年法の理念である「保護と矯正の可能性」を重視し、主犯格の少年Aに懲役20年を言い渡しました。他の少年らに対しても、少年Bに懲役5年以上10年以下の不定期刑、少年Cに懲役5年以上9年以下、少年Dに懲役5年以上7年以下の判決が確定しました。当時、この司法判断に対しては「犯行の悪質さに比して量刑が軽すぎる」との批判が殺到し、その後の少年法改正議論に決定的な影響を及ぼしました。
被害者の遺族は1990年代に民事訴訟を起こし、加害者らとその両親に対し合計約5,200万円の損害賠償を命じる判決を勝ち取りました。しかし、加害者側の賠償金支払いは滞り、親族の自己破産や音信不通により、賠償金の大半が回収不能に陥った事実が当時の報道で明るみに出ています。命を奪った加害者が一定年数で社会に戻り、賠償さえ十分に果たされない現実は、日本の犯罪被害者支援制度の不備を浮き彫りにしました。