「水戸黄門」の物語を決定づけた「助さん・格さんを連れて全国津々浦々を旅し、悪を懲らしめる」という展開は、徳川光圀の諸国漫遊は嘘であり、後世の講談や創作が生み出したフィクションです。幕府の厳しい統制下にあった江戸時代、親藩のトップである大名が無断で領外を旅することは謀叛の疑いを招く行為であり、制度上も不可能でした。
光圀が実際に生涯で足を踏み入れた場所は、領地である常陸国水戸と江戸の往復(参勤交代)、地誌『新編鎌倉志』編纂のための鎌倉視察、そして日光東照宮への参拝など、関東近郊のごく限られた地域だけでした。京都や大坂、四国や九州へ足を延ばした記録は一切残されていません。
そもそも徳川光圀と水戸黄門の違いを整理すると、「黄門」とは官職である中納言の唐名(中国風の呼び名)に由来します。光圀は隠居後に「権中納言」に任じられたため、水戸の中納言、すなわち「水戸黄門」と呼ばれたに過ぎません。
では、なぜ諸国漫遊の伝説が生まれたのでしょうか。その鍵を握るのが、お供の代表格である徳川光圀の助さん格さんのモデルとなった実在の学者たちです。光圀の側近で歴史編纂所「彰考館」の総裁を務めた佐々十竹(さっさじっちく/通称・佐々介三郎)が助さんのモデルであり、同じく学者として仕えた安積澹泊(あさかたんぱく/通称・安積覚兵衛)が格さんのモデルとされています。彼らは史料収集のために全国の寺社や旧家をくまなく探索して歩きました。この学者たちの足跡と、隠居後に領民と気さくに触れ合った光圀のエピソードが結びつき、幕末の講談『水戸黄門漫遊記』を通じて伝説化していったのです。