事件から約30年が経過した2000年代初頭、事態は劇的な転換を迎えます。米国の情報公開制度に基づき、アメリカ国立公文書館に保管されていた機密指定文書が次々と解禁。そこには、400万ドルの原状回復費を日本側が肩代わりする合意書や、日米当局間の生々しいやり取りが明確に記録されていました。西山氏が報じたスクープは、1ミリの狂いもなく完全な歴史的真実だったのです。
決定打となったのは、協定調印当時の当事者であった外務省アメリカ局長・吉野文六氏の法廷および公の場での証言でした。吉野氏は「密約書に私がサインした。西山さんが入手した文書は本物であり、密約は存在した」と公式に認めたのです。国家が30年以上にわたり国民につき続けてきた嘘が、当事者の口から完全に崩壊した瞬間でした。
これを受け、西山太吉氏は2005年、国を相手取り謝罪と損害賠償を求める国家賠償訴訟を東京地裁に提起します。「自分個人の名誉回復のためではない。国家が国民を欺き、真実を報じた記者を弾圧した責任を明らかにしなければ、日本の民主主義は終わる」という悲痛な叫びでした。2011年の最高裁決定により訴え自体は棄却されたものの、判決理由のなかで「密約の存在」そのものは事実上認定され、司法の場でも歴史の改ざんは防がれました。
2026年2月24日、西山氏は北九州市内の介護施設にて、心不全のため91歳で息を引き取りました。訃報が流れた際、SNSやネット掲示板では「国家の嘘を暴いて人生を狂わされた真のジャーナリスト」「当時のメディアの腰の引け方こそ糾弾されるべきだった」と、その生き様を称賛し再評価する声が圧倒的多数を占めました。