「平安時代の理想の政治とされる『延喜・天暦の治』は一体なぜ称賛されたのか?」という疑問に対する歴史学的な結論は明快です。この二つの時代が賞賛された最大の要因は、当時の治績が優れていたからではなく、後世の平安貴族たちにとって「都合の良いノスタルジー」として機能したために他なりません。
歴史上、延喜・天暦の時代を「聖代」として美化し始めたのは、藤原道長や藤原頼通に代表される摂関政治の最盛期から院政期にかけての公家たちでした。そこには、二つの決定的な動機が存在しました。
一つ目は、「有職故実(ゆうそくこじつ)の先例」としての絶対化です。平安中期以降、朝廷政治において政策の実質的な議論は影を潜め、「過去の儀式や作法の先例(例)」にいかに忠実であるかが貴族社会の序列と正当性を決める基準となりました。その際、法典として完璧に整備された『延喜式』や、村上天皇期の洗練された宮廷儀礼・歌合の記録が、公家たちにとって参照すべき「最高規範」として定着したのです。
二つ目は、「摂関政治の専横に対する無言の批判装置」としての役割です。中下級の貴族や藤原氏主流派から外れた廷臣たちにとって、摂政や関白が置かれず、天皇が広範な公卿の意見を聞いて政務を行っていた(と信じられていた)延喜・天暦の時代は、自らの権益が保たれていた「失われた黄金時代」として映りました。平安末期の歴史物語『大鏡』や鎌倉時代の『愚管抄』において、この時代が過剰なまでに礼賛されている背景には、固定化した摂関専制や武家台頭への怨嗟が色濃く反映されています。