バラやユリのような甘く華やかな芳香ではなく、なぜクリは人間が顔をしかめるような動物的な異臭を進化の過程で選択したのでしょうか。その答えは、クリという樹木の虫を引き寄せる受粉の仕組みに隠されています。
植物の受粉様式には、風に乗せて花粉を運ぶ「風媒花(ふうばいか)」と、昆虫に運ばせる「虫媒花(ちゅうばいか)」が存在します。クリ(ブナ科クリ属)は、その両方の性質を併せ持つ「両媒花」という極めて特殊な進化を遂げました。初夏に垂れ下がる白から淡黄色の長大なブラシ状の穂は「雄花序(ゆうかじょ)」であり、その根元付近にひっそりと小さな「雌花」がつきます。
クリがターゲットとしている送粉者(ポリネーター)は、華やかな花を好むミツバチやチョウだけではありません。森林の生態系において分解者として機能する甲虫類(ハナムグリ、コガネムシ類)やハエ類、アブ類といった昆虫群です。これらの昆虫は、動物の死骸、発酵した樹液、腐敗物から漂うアミン臭やアンモニア臭を頼りにエサ場を探す性質(腐敗擬態)を持っています。
初夏の里山において、遠くまで広がる高濃度のスペルミン臭は、昆虫たちにとって「魅力的なタンパク質や発酵源が存在するシグナル」として機能します。花蜜や花粉を求めて集まった数万匹もの甲虫や小型昆虫が、雄花から雌花へと這い回ることで、確実に受粉が成立します。人間にとっては気まずく不快な悪臭も、自然界の弱肉強食と生殖の連鎖の中では、何万年もの淘汰を生き抜くために磨き上げられた完璧なフェロモン戦略に他なりません。