足尾鉱毒問題の解決に立ち上がったのが、栃木県安蘇郡小中村(現在の佐野市)出身の代議士、田中正造でした。名主の家に生まれ、自由民権運動を経て第1回衆議院議員総選挙で当選した正造は、帝国議会の壇上で政府の責任を舌鋒鋭く追及し続けました。しかし、政府の壁は厚く、当時の農商務大臣・陸奥宗光(古河市兵衛と親密な関係にあり、次男の潤吉を古河家の養子に送り込んでいた)をはじめとする首脳陣は、銅山の操業停止を断固として拒否しました。
国策を優先する政府は、形ばかりの鉱毒予防工事を命じるにとどまり、抜本的な対策を講じようとしませんでした。被害に耐えかねた農民たちは幾度となく東京への集団直訴(押出し)を試みましたが、1900年(明治33年)2月、群馬県利根川堤防の川俣において、陳情に向かう無抵抗の農民団が警官隊と衝突。多数の負傷者と67名もの逮捕者を出す「川俣事件」が発生します。正造は議会で「亡国に至るを知らざれば是れ即ち亡国の儀に御座候」と激昂して政府を糾弾しましたが、議場からは冷笑と野次が浴びせられ、質問主意書は無視されました。
法治国家の枠組みと議会政治の限界を悟った正造は、1901年(明治34年)10月、ついに衆議院議員を辞職します。国家の最高権力構造に風穴を開けるため、彼が選んだ最後の手段が明治天皇への直訴でした。
同年12月10日、東京・日比谷において、帝国議会開院式から馬車で宮城(皇居)へ還幸する明治天皇の隊列の前に、正造は身を投げ出しました。「お願いがございます!」と叫びながら直訴状を掲げた正造は、即座に警備の騎馬警察官に取り押さえられました。幸いにも狂人として扱われ、取り調べを受けた後に即日釈放されましたが、この命がけの行動は東京中の新聞で号外として報じられ、社会に凄まじい衝撃を与えました。
このとき正造が懐中に忍ばせていた「直訴状」の文面は、当代随一のジャーナリストであり、のちに大逆事件で刑死する思想家・幸徳秋水が起草し、正造が推敲を重ねたものでした。直訴状には、流域住民が直面している地獄のような惨状、政府官僚の怠慢と企業への便宜供与、そして人民を見殺しにすることは国家の存立を危うくするという魂の叫びが、格調高くも痛烈な筆致で記されていました。天皇直訴という封建的な形式を取りながらも、その本質は「国民の生命を守らない国家に正統性はあるのか」を問う、近代民主主義の根源的な告発状だったのです。