テレビ画面越しには、突如理不尽に激怒したようにも映るこのシーンですが、当時の状況を検証すると、猪木がなぜそこまで殺気立っていたのかという切実な理由が浮かび上がってきます。
第一の理由は、アントニオ猪木自身が背負っていた政治家とレスラーの二重生活による極限の重圧です。猪木は前年の1989年夏、スポーツ平和党から参議院議員選挙に出馬し、初当選を果たしていました。「国会議員がプロレスのリングに上がるのか」という世論からの激しい批判に晒される中、この東京ドーム大会は議員就任後の事実上の本格復帰戦でした。もしここで若い世代に無様な敗北を喫すれば、自身のレスラー生命はおろか、政治的信用まで失墜しかねない断崖絶壁に立たされていたのです。
第二の理由は、新日本プロレス崩壊の危機と世代闘争のリアルな殺気です。当時のプロレス界は全日本プロレスとの対抗戦や他団体との摩擦が激化しており、新日本の屋台骨を支え続けてきた創業者・猪木に対し、橋本真也や蝶野正洋ら「闘魂三銃士」は「老害をリングから引きずり下ろす」と公言して本気で潰しにかかっていました。互いに一切の妥協が許されない、まさに看板と意地を賭けた果たし合いだったのです。
報道各社の当時の取材記録や関係者の証言によると、控室に入る直前の猪木は、血圧が危険水域に達するほどアドレナリンを沸騰させ、完全な「戦闘モード(トランス状態)」に入っていました。その極限状態のファイターに対し、メディア側の人間が「もし負けたら」という前提でマイクを向けたこと――それ自体が、命を張ってリングに上がるプロフェッショナルへの冒涜であり、勝負の神様に対する最大のタブーでした。張り手は感情的な暴力ではなく、闘争心の導火線に無神経な水を差された勝負師の本能的な拒絶反応だったのです。