屋敷の崩壊以上に貫之の心を粉々に砕いたのが、「この家で生まれ、土佐で失った幼い愛娘」の記憶でした。教育現場や古典講読の場でも、受講生から「なぜ貫之の娘は亡くなったのか」「なぜ男である貫之が女性のふりをして書いたのか」という疑問が絶えません。
当時の衛生環境や医療水準において、乳幼児の死亡率は極めて高く、気候の異なる南国・土佐での風土病や急性疾患は、幼い子どもにとって致命的でした。貫之の手記からは、娘がどのような病で命を落としたかという医学的詳細は伏せられているものの、任期中に最愛の娘を失ったという事実は、貫之の後半生を決定づけるトラウマとなったことが伺えます。
当時、公的な記録や男性の文章は漢文で綴るのが鉄則でした。しかし、漢文という規範的・形式的な言語では、我が子を失った生々しい慟哭や、胸を締め付ける私的な哀傷をすくい取ることができません。だからこそ貫之は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」と冒頭で宣言し、仮名文字(女手)を用いて女性の語り手に仮託したのです。これは単なる文学的遊戯ではなく、あふれ出るグリーフ(悲嘆)をありのままに言語化するための必然的な選択でした。
作中に登場する「忘れがたし」という語には、二重の痛恨が込められています。変わり果てた我が家の姿を忘れようとしても忘れられないという無念と、土佐の土となって永遠に帰らぬ娘への断ち切れない執着です。船旅の仲間たちが無事に帰還し、その子どもたちが元気にはしゃぎ回る(子どもあざれあへり)姿を見るにつけ、貫之の孤独と喪失感は耐えがたい極限に達しました。