五榜の掲示とは?御誓文との違いとわずか5年で撤去された歴史の真相

五榜の掲示とは?御誓文との違いとわずか5年で撤去された歴史の真相

五榜の掲示とは?御誓文との違いとわずか5年で撤去された歴史の真相の基礎知識と応用に迫る! 専門的な視点でまとめました。

五榜の掲示のなかで、のちに最大の外交的火種となったのが第三榜の「キリスト教禁止令(邪宗門の厳禁)」です。新政府はなぜ、欧米列強との協調を模索しながら、ここまで頑迷にキリスト教を弾圧したのでしょうか。その現場で起きていた実態は、現代の私たちが想像する以上に凄惨なものでした。

幕末の1865年、長崎の大浦天主堂で潜伏キリシタンが信仰を告白した「信徒発見」を契機に、長崎・浦上村の信徒たちが表立って仏教寺院との関係を断ち切る動きを見せました。これが歴史に名高い浦上四番崩れです。徳川幕府が倒れ新政府に移行した直後、新政府の長崎府参与・沢宣嘉や大隈重信らは、信徒たちに対して信仰を捨てるよう迫りましたが、信徒側は断固として拒否しました。

当時の記録や手記には、新政府役人が「神道を中心とする祭政一致の国家体制に反する異端」として信徒を厳しく断罪した様子が生々しく残されています。新政府が下した処断は苛酷を極めました。1868年から1870年にかけて、浦上村の住民約3,400人全員が津和野、萩、鹿児島など全国各地の藩へ配流(流罪)に処されたのです。

移送先では改宗を迫るための苛烈な拷問が行われました。真冬の屋外で裸にして氷水を浴びせる「寒晒し(かんざらし)」や、狭い檻に閉じ込めて餓死寸前に追い込む仕打ちにより、配流された信徒のうち600人以上が命を落としたと公式記録に記されています。新政府の指導者層は、「キリスト教を容認すれば、民衆の忠誠が天皇ではなく西洋の神に向かい、国家統合が瓦解する」という強烈なパラノイア(妄執)に囚われていたのです。

伊藤 翔太
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伊藤 翔太

マネー知識やキャリア形成に役立つノウハウを、初心者にも分かりやすく解説するのが得意です。