焼き討ちといえば「数千人が虐殺され、山が炎と血の海に染まった」という凄惨な光景が語られてきました。このイメージの多くは、信長の右筆(書記官)であった太田牛一が記した『信長公記』の「僧俗・児童・智者・上人、ことごとく首を切り落とし、死骸の山となった」という激烈な記述に基づいています。
しかし、当時の史料を精査すると、死者数数千人という規模には誇張が含まれている可能性が浮上しています。公家の日記や同時代の書状を照らし合わせると、信長軍の侵攻前に僧侶の多くや住民は事前に避難していた形跡が見られます。
太田牛一の記録は、信長の圧倒的な武力と冷厳な処断を世に知らしめ、敵対する勢力を心理的に威圧するためのプロパガンダ的な側面を含んでいました。「全山皆殺し」という残虐描写は、織田政権の軍事的な恐ろしさを強調するために脚色された部分が少なからず存在したと考えられます。