『不夜城』をはじめとする暗黒街小説の旗手として文壇に君臨してきた馳星周が、なぜこれほどまでに純粋で無垢な犬の物語を紡ぎ出したのか。その背景には、作家自身の私生活における深い喪失と再生の経験が刻まれている。
軽井沢で大型犬たちと暮らし、愛犬の闘病や看取りを幾度も経験してきた馳星周。犬という存在が人間にもたらす無条件の愛と救済を誰よりも知る彼が、「命の尊さ」を真正面から描くために選んだ舞台が、未曾有の災禍であった東日本大震災だった。裏設定として、多聞という名前には仏教の四天王の一尊である「多聞天(毘沙門天)」の意が込められており、北方を守護する神の名を冠した犬が南へと旅を続けるという象徴的な構図が取られている。暗黒小説で培われた冷徹な人間描写の技術が、光を描くために惜しみなく注ぎ込まれたからこそ、甘さを排した本物の哀切が生まれたのだ。