慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いを経て天下の趨勢が決した直後、伊達政宗は標高約130メートルの青葉山に仙台城の築城を開始した。当時、城の威容を示す象徴であった天守閣をあえて建造しなかったのには、明確な2つの軍事・政治的意図が存在した。
第1の理由は、徳川家康に対する警戒心の払拭だ。天下人となった家康は、野心家として知られる政宗の動向を厳しく監視していた。もし仙台の地に巨大な五重天守を築けば、幕府への敵対心と受け取られかねない。政宗は巨大な天守をあえて排することで、幕府への従属と恭順をアピールし、伊達家62万石の安泰を図ったとされている。
第2の理由は、徹底した実戦重視の縄張り(設計)である。仙台城の本丸東側と南側は、広瀬川と深い竜の口渓谷に面した切り立った断崖絶壁に守られており、攻め込むことが極めて困難な「天然の要害」だった。天守のような目立つ高層建築は、有事の際に格好の標的となりやすい。実戦を熟知した政宗は、形骸化した権威の象徴よりも、山城としての圧倒的な防御力を優先した。
その代わりに本丸に築かれたのが、豪壮華麗を極めた「本丸大広間」だ。桃山建築の粋を集め、狩野派の障壁画や金箔で彩られた大広間は、訪れる他大名や幕府の使者を圧倒する格式の高さを誇っていた。外向きには敵意を見せず、内には最高峰の権威と堅牢さを秘める——これこそが伊達政宗の真骨頂といえる防衛戦略だった。