幕末維新の主役として明治新政府の中枢に多くの要人を送り込んだ長州藩。その本拠地であった萩城天守閣が、維新成立からわずか数年後の明治7年(1874年)に跡形もなく破却された事実は、多くの歴史ファンに強い衝撃と疑問を抱かせます。
解体の直接の引き金となったのは、明治6年(1873年)に発令された太政官布告、通称「廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)」でした。全国の城郭を軍用地として利用する「存城」と、大蔵省に引き渡して売却・処分する「廃城」に区分したこの政策において、萩城は存城の対象から外れ、民間に払い下げられる運命をたどります。
なぜ、長州藩出身の高官たちが権力を握っていたにもかかわらず、自藩のシンボルを保存できなかったのでしょうか。歴史公文書や当時の藩政記録を紐解くと、そこには「深刻な財政難」と「近代国家建設への強烈なパラダイムシフト」という2つの冷酷な現実が横たわっていました。
長州藩は幕末の長州征討や戊辰戦争によって莫大な軍費を消費し、維新直後は財政破綻寸前の危機に瀕していました。藩庁自体も文久3年(1863年)に防長二州の中心に位置する山口(山口政事堂)へ実質的に移転しており、沿海部に位置する萩城はすでに政治的機能を喪失していたのです。
さらに、封建社会の遺物である城郭を維持・修繕し続けることは、欧米列強に比肩する近代中央集権国家を目指す明治政府のイデオロギーと真っ向から衝突しました。結果として、天守閣をはじめとする御殿・櫓・門などの建造物は木材や瓦の建材として競売にかけられ、民間業者によって徹底的に解体されました。誇り高き毛利家の象徴は、新時代の礎となるための換金物としてその姿を消すこととなったのです。