伊佐爾波神社の起源は神話の時代にまで遡ります。社伝や松山市の史料によると、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉を行幸した際の行宮跡に建てられたのが始まりと伝えられており、平安時代の『延喜式神名帳』にも名を連ねる格式高い式内社です。中世には道後城主・河野氏の崇敬を集め「湯月八幡宮」として武士階級の精神的支柱となりました。
現在の壮麗な朱塗り社殿が誕生した契機は、江戸時代初期の寛文年間に起きた劇的な歴史的エピソードにあります。松山藩第3代藩主・松平定長が江戸幕府第4代将軍・徳川家綱から江戸城での流鏑馬(やぶさめ)の命を受けた際、弓術に不安を抱いた定長は故郷の八幡宮に必勝を祈願しました。見事に弓馬の儀を成し遂げた定長は、その神恩感謝の返礼として社殿の大規模な造営を命じたのです。
定長が手本としたのが、当時徳川将軍家が崇敬していた京都の石清水八幡宮でした。寛文7年(1667年)に竣工した社殿は、前殿と後殿を前後の屋根の谷部分である「相の間(あいのま)」で連結する八幡造(はちまんづくり)と呼ばれる極めて特殊な複合建築様式を採用しています。現存する八幡造の神社建築として、国指定重要文化財の指定を受けたのは大分の宇佐神宮、京都の石清水八幡宮、そしてこの伊佐爾波神社の三社のみであり、これが「日本三大八幡造」と称賛される揺るぎない根拠となっています。