菅前首相の弔辞が人々の胸を打った最大の理由は、政治的な功績の羅列ではなく、生身の人間同士が結んだ深い絆の物語から語り始められた点にあります。その象徴として語られたのが、2012年夏の「銀座の焼き鳥屋」での密談でした。
当時、第1次安倍政権の退陣から5年が経過し、失意の底にあった安倍氏に対し、菅氏は再登板を強く促しました。報道各社の回顧録や関係者の証言によると、菅氏は周囲の慎重論をよそに、銀座の焼き鳥屋で安倍氏と二人きりで向かい合い、「日本には、あなたが必要だ」と3時間近くにわたって口説き落としたとされています。弔辞の中で菅氏は、この決断について次のように述懐しました。
「あの時、焼き鳥屋で私が申し上げた言葉を、生涯忘れることはありません。私の人生で最も誇るべき決断は、あなたを総理総裁に押し上げたことです」
第2次政権発足以降、歴代最長となる7年8カ月(2822日)にわたり内閣官房長官を務め上げた菅氏。黒衣(くろご)に徹し、毎日2回の記者会見をこなして政権の防波堤であり続けた「女房役」だからこそ語り得る言葉が、冒頭から聴衆の心を強く捉えたのです。