ここで一度、歴史的な事実に目を向けてみよう。実は、この逸話には確固たる一次史料が存在しない。明治の文豪が英語教師をしていた際、学生が「I love you」を「我君を愛す」と訳したのを見て、「日本人はそんなことは言わない。月が綺麗ですねとでも訳しておきなさい」と言ったとされるエピソード。しかし、漱石の研究者の間では、これは後世の創作であるという説が極めて濃厚だ。
それでもなお、この話が「真実」として語り継がれ、教科書やドラマを通じて定着したこと自体が興味深い。私たちは、漱石という偉大な知性を借りて、「日本的な美意識」の理想像をそこに投影しているのではないか。嘘か真かという事実関係を超えて、このエピソード自体が日本人の心に深く根ざした文化装置として機能している。