寺山修司の実験精神がもっとも先鋭化した事件として語り継がれているのが、1975年4月に行われた市街劇『ノック』です。
この公演では、劇場という枠組みを完全に破棄し、東京都杉並区一帯(約30カ所の一般住宅街、銭湯、空き地、駅前など)を舞台として設定しました。観客には地図が配られ、指定された場所を訪れると、見知らぬ男が穴を掘っていたり、銭湯の女湯で突然寸劇が始まったり、一般家庭のドアを突然役者がノックして住民に語りかけるといったパフォーマンスが同時多発的に繰り広げられました。
この結果、事情を知らない一般住民から警察への110番通報が相次ぎ、警察官が多数出動する事態となりました。寺山の手記によると、「観客と役者、日常と非日常の境界を完全に消滅させ、街そのものを虚構で染め上げること」が狙いでした。この試みは、現代における「イマーシブシアター(没入型演劇)」や「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」の先駆例として、世界の現代演劇史においても特筆すべき事件として記録されています。