大阪市生野区で在日韓国人4世として生を受けた秋山成勲は、元柔道選手だった父親の手ほどきを受け、わずか3歳で畳の上に立ちました。名門・清風高校を経て進学した近畿大学柔道部では、重量級のパワーと軽量級並みのスピードを兼ね備えた中量級(81kg級)のエースとして急成長を遂げます。得意技の袖釣込腰や大内刈りは大学柔道界で恐れられ、関西学生体重別選手権を制覇するなど、その実力は学生トップクラスに位置していました。
大学卒業を控えた1998年、秋山は大きな決断を下します。幼少期からの宿願であった「韓国代表としてオリンピックに出場する」という夢を果たすため、単身韓国へ渡り市庁チーム(釜山市庁)に加入。本名であるチュ・ソンフン(秋成勲)として、太極旗を胸に戦う道を選んだのです。
しかし、そこで待ち受けていたのは実力主義だけでは突破できない冷酷な現実でした。当時の韓国柔道界は、名門「龍仁(ヨンイン)大学」出身者が連盟や審判団の要職を独占する強固な学閥社会。在日出身で日本の近畿大学を出た秋山は完全な「アウトサイダー」として扱われました。国内選考会で優勢に試合を進めながらも、不可解な判定で敗れる事態が頻発します。
関係者の証言や当時の韓国メディアの報道によると、2000年シドニーオリンピック代表選考会でも同様の憂き目に遭い、五輪出場の夢を理不尽に断たれました。それでも翌2001年、モンゴル・ウランバートルで開催されたアジア柔道選手権大会で見事にオール一本勝ちで金メダルを獲得し、韓国代表としての実力を証明してみせました。しかし、実力だけでは是正されない構造的格差に直面した秋山の心には、深い失意と新たな決意が芽生えていました。